平和マラソンはこうして誕生した|「2018反核平和スポーツの交流の夕べ」より

2018年8月5日に行われた「2018反核平和スポーツの交流の夕べ」で、山根正弘さん(関西網の目大阪・奈良実行委員会)による発言の内容を紹介します。


山根さん

今回、私が関わった「反核平和マラソン」誕生の話をしたいと思います。

私は1964年に大阪の府立高校に保健体育教師として赴任しました。忘れもしないのは、その秋、職員研究出張で東京オリンピックを見学したことです。私が見学した種目は、マラソン競技でした。その日10月21日、東京国立競技場に、最初にエチオピアのアベベが入ってきました。優勝タイムは2時間12分11秒で、世界新記録(当時)でした。会場を熱狂させたのは、日本の円谷幸吉選手が場内に入ってきた時です。首を傾けて苦しそうに懸命こゴールしました。惜しくも3位でしたが、堂々の銅メダルです。その時の感激が私のランニングへの興味の始まりでした。

新体連(当時)高槻支部で活動

私は着任と同時に「教職員組合」にも入りました。何もわからない組合員でしたが、「教え子を再び戦場に送らない」のスローガンには共鳴するものがあり、その後、先輩たちの影響もあって、府高教職員組合の青年部役員を引き受けました。

一方、1966年に新体連(当時)大阪府本部が誕生しています。大阪の初代理事長の天野活さんが、組合青年部の役員をしている私を目に留め、後輩ということもあって、早速、声をかけられ、新体連の活動に参加することになったのです。

1970年に第8回全国スポーツ祭典が大阪で開催されましたが、柔道競技の責任者としても取り組みました。

当時、連盟では「種目組織の強化」と「地域組織の確立」の方針で活動しており、私はその趣旨から自分の勤務しているところで「高槻支部(後に高槻市連盟)」を立ち上げました。暗中模索でしたが、学校の施設を借りて、まず得意な柔道練習会、そして卓球練習会、ソフトボール大会など取り組みました。

「月例マラソン」の誕生

そんな時に陸上競技を専門にしている先輩から「最近ランニングする人が多いからマラソン大会をやってみては」と声をかけてもらったのです。早速、校内駅伝大会のコースの一部でもあった淀川堤防を視察しました。

「ここならやれそうだ」との確信を得ました。その後、先輩のアドバイスも受けながら準備しました。暑い8・9月を休んで年10回、毎月第一日曜日に開催など決めました。

1972年9月3日、記念すべき「第1回高槻月例マラソン大会」の誕生となったのです。場所は淀川右岸コース。参加費は100円。A(2・5㎞)、B(5㎞)、C(10㎞)の3コースを設けました。

計測は私が担当しましたが、その他の役員は柔道部員です。優勝~3位の賞状は書道部の生徒に書いてもらいました。受付の画板とストップウォッチ1つで始めましたが、よくやったものです。

新聞などに投稿して宣伝しました。参加者は中学生から高齢者まで毎回50人前後が集まり、「毎月記録が試せるので重宝」とか「ビリでも恥ずかしい、という雰囲気じゃない」とか好評でした。

以後、毎月欠かさず20年間、1982年7月の「200回・閉会大会」まで続けました。この「月例マラソン」が連盟内外に瞬く間に広がったのは皆さんご承知の通りです。

苦手だったランニングにチャレンジ

私の専門種目は柔道で、走るのは苦手でした。ところが、この月例マラソンを始めてから、参加者がとても楽しく走っているのを見て「私も走ってみよう」という気になり、少しずつランニングを始めたのです。早朝や通勤など毎日のように走るようになりました。その私が1980年8月23日には利尻島一周52㎞、12月には第2回小豆島フルマラソン大会初完走(記録は3時間33分27秒)、翌81年5月4日には「一人ぼっもチャレンジランニング小豆島一周59キロ」を走破するまでになったのです。その頃は文字通り「ランニングこそわが人生」といった感じで「この汗が生きてる証しランニング」と川柳に詠むほどでした。

「新体連・チャレンジランナーズクラブ」を作ったのはその頃です。大阪府連盟主催のフルマラソン大会は1979年3月から開催していますが、その大会役員として、決勝や計測の審判を一緒に担当していたのが、バレー協の岡田安功さんです。彼とは走ることで意気投合し、二人で各地のマラソン大会にチャレンジしました。

走ることで世の中に何か役に立てないか

その後、ランニングで人間の可能性に挑戦しようと「新体達チャレンジ・ランナーズクラブ」を結成。しばらくして漫画家の有村潜さんが参加。

その日も、長居公園外周を30㎞走り、近くの居酒屋に立ち寄りました。話が弾んで、「走ることで世の中に何か役に立てないか」と「反核平和マラソン」を呼びかけることにしたのです。

そして、1982年7月4日、「第1回大阪~京都54㎞平和マラソン」が実施されました。参加者46人。大阪城公園噴水前を9時に出発、想い想いのゼッケンを胸に、京都二条城に無事ゴールしました。完走者はただ一人で京都の23歳、宮村さんでした。

その後、今日に至るまで36年間続けてきました。大きな事故もなくやってきましたが、今では全国的に実施され、感無量です。

スポーツと私たちの平和行動を直接結びつけたのは、1982年の第14回スポーツ祭典で連盟が掲げたスローガン「スポーツは平和とともに」にです。「平和であってこそスポーツができる」「スポーツマンも平和のために何かしよう」との思いからです。

第1回 反核平和マラソン 1982年7月4日

平和マラソンを日本全国に そして世界に

私の夢は、一つは、この反核平和マラソンが、もっと全国に広がることです。現在19都道府県40コースとありますが、とりわけ四国地方、沖縄、そして私の出身地島根で声が上がってほしいです。そして、反核平和マラソンの「ランナーズ賞」受賞を目指したいです。

もう一つは、「反核平和マラソン」が世界中に広がってほしい。すでに韓国で実施されていますが、この運動の力で日本はもちろん、世界の多くの国からの「原水爆禁止条約」の署名と批准を実現してほしいのです。私も今年77歳、喜寿を迎えましたが、この「反核平和マラソン」のためなら、力を惜しまないつもりです。

第37回反核平和マラソン 2018年7月1日