スポーツ基本法をどう生かしていくか?シンポジウムを開催

 新日本スポーツ連盟は『日本のスポーツ基本法制の到達点と課題ースポーツ基本法をどう生かしていくかー』と題するシンポジウム(現代スポーツ研究会協賛)を、2011年11月20日に開催しました(場所:エデュカス東京、参加者63名)。1部では『スポーツ基本法制の到達点と課題』、2部では『スポーツ基本法に何を期待するか』と題し、5人のシンポジストからさまざまな意見を発表。それらの報告を受け、シンポジストと参加者で全体討論を行ないました。
 以下、シンポジストのレポートをダイジェスト版で掲載します。
スポーツ基本法におけるスポーツに関する権利とスポーツ法の射程
齋藤健司氏(筑波大学体育系准教授)
 スポーツ基本法に『スポーツに関する権利』が明記されたことはとても意義があることです。『憲法第13条の幸福追求権の存在がスポーツの次元においても初めて確認された』ことにより、今まではスポーツ権があるかないかの議論でしたが、今後はスポーツ権を実質的・制度的にいかに保障するのかの議論へと向かうことができるようになったからです。
抽象的な基本法
 さて、このスポーツ基本法の条文は非常に抽象的に書かれています。幸福追求権を中心としたプログラム的な規定であり、このままではなかなか具体化できません。
 「スポーツ通じて幸福で豊かな生活を営むことは、全ての人々の権利である」とする規定(前文と第2条)も然りです。この場合の『スポーツ』とは何なのか、『幸福で豊かな生活』とは何か、『全ての人々』とは誰なのか、『権利』とは何か、よくわかりません。とても抽象的です。ただし、これは仕方のないことでもあります。なぜならば、それが基本法だからです。
 スポーツ基本法が対象とする主体は多様であり、法の射程は非常に広く捉えることができます。たとえば、一般の「人」のほか、「国民」「青少年」「障害者」「スポーツを行う者」「スポーツ選手」など多様な主体が示されています。しかし、スポーツ権を具体化するためには、これらの法の対象となる主体、さらにそれらが行う『スポーツ』そのものの活動や関係を明確にする必要があります。
不足している『スポーツの自由』に関する理念
 ヨーロッパ・みんなのスポーツ憲章(76年)などの権利宣言を参考にして、スポーツ法学会からスポーツ基本法要綱案(97年)を提案させていただきました。この要綱案とスポーツ基本法を比較すると、特にスポーツ基本法には、『スポーツの自由』に関する理念の規定が抜け落ちていると感じます。この『スポーツの自由の確保』について、もう1度改めて考えるべきではないでしょうか。
今後の課題
 今後の課題は、以下の通りです。
(1)スポーツ権の権利主体および、スポーツ法の対象となる人の明確化と構造化
(2)スポーツ政策の政策主体およびスポーツ法の対象となる団体等の明確化と構造化
(3)スポーツ法の対象となる特定の人、団体、組織、行為等の関係の明確化と構造化
(4)関係者の民主的協議や社会的対話の必要性
団体・自治体・マーケット・学校・住民が相互連携しながらダイナミズムを生み出す、スポーツの力
中村祐司氏(宇都宮大学教授)
 プロアマやマーケット、スポーツに関わる関係者・指導者の問題など。旧スポーツ振興法に記述されている内容では現代に合わなくなってきてしまいました。今回、スポーツ基本法ができたのは大変意義があります。早速スポーツ基本法の課題を見ていきましょう。
マーケットがスポーツに与える負の影響
 スポーツ振興基本計画(2006年9月改訂版)とスポーツ立国戦略(2010年8月)。 この2つの法案は『スポーツを振興することがマーケットに好影響を及ぼす』発想は共通しています。ただ『マーケットの論理という逆ベクトルが存在する』課題は決定的に欠如しています。
 例えば、競技のルールを変えたり、テレビ放送時間に合わせ試合時間を変えたり、選手のコンディションを無視したり。『マーケットの論理』がスポーツに与える負のベクトルの存在を忘れてはなりません。『マーケットの論理』がスポーツの世界に入り過ぎると問題が生じます。スポーツ基本法にはこの欠如した部分を期待です。
 
『協働』という言葉に注意
 またスポーツ基本法の条文中に「スポーツをめぐる政府、市場、団体、地域住民の『協働』をめぐる相互連携」(7条、18条、28条)の記述があります。この『協働』という言葉が入った。これは注目する必要があります。
 財政が非常に厳しい中で、財源のスリム化を狙わなければならない現代。極端な例だと、ボランティアたちのただ働きを期待する。震災で生まれた『絆』という言葉と同じかもしれませんが、『協働』という言葉には注意が必要です。誰が誰に対して働きかけるのか、どの組織がどのベクトルに向いて動いていくのか。ここが曖昧なまま、言葉のイメージが膨らんでいってしまう傾向があります。
スポーツの『協働』の力
 もっとも私が関心を持った具体例は次のことです。10月21日の朝日新聞にこんな記事が載っていました。『四国アイランドリーグ(野球独立リーグ)・愛媛の地域貢献活動が年間150回以上行なわれている』と。彼らは自分たちの野球をする環境を確保するために、子どもたちの登下校のガードマンや清掃活動をやったり、もちつき大会に出たり。これは団体から地域住民へのベクトルです。しかしこれで終わらないわけです。
 本来、地方自治体がやることを球団がやってくれている。やってくれているなら、県として球団に3000万円出そうじゃないか。これは自治体から球団(団体)へのベクトルです。さらにそれを見ていた地元企業70社がスポンサーとして出資してくる。最終的に97の株主が集まったのです。
 またBCリーグ(野球独立リーグ)では、地域貢献活動に汗を流す信濃の選手を見た地元の会社が『あれだけの選手なら獲ろうじゃないか』と就職が決まる。さらにその選手を育てていた指導者も教え子の就職が決まり、将来的に安心して独立リーグへ選手を送ることができるようになる。このようにスポーツは相互連携において、他の追随を許さない好循環を生み出す力を持ちます。
 ちなみに私の地元のバスケットボールチーム・栃木ブレックス(JBL)の地域貢献活動が通算1000回を超えました。こうした好循環がとても大切です。
どの団体も平等・公正にスポーツする機会を
萩原純一氏(新日本スポーツ連盟東京都連盟理事長)
 地域スポーツの現場から、このスポーツ基本法に期待すること。それは『スポーツ行政が誰にでも公正・公平であってほしい』ということです。 私は68年に初めて、北区青年スポーツ祭典に職場の仲間と参加しました。自主的に若者が集まり、その力で毎年秋にこの大会は行なわれていました。ただ会場となったのは中学校や会社の寮の裏の空き地など。公共のスポーツ施設は1つもないのです。
 新体連に関わり始めた私はそれから幾度となく「施設を貸して欲しい」と北区体育課に交渉するも門前払い。相手にもされない状況がずっと続いてきました。このとき、20歳ながら「自治体のスポーツ行政は地域住民の為に行なわれていない」と強く感じました。
 75年北区に新日本スポーツ連盟ができ、北区スポーツ祭典(第13回)にも補助金10万円を出してくれると、北区区役所から吉報が届きます。ところがその7年後に補助金が打ち切られる事件が。
 北区の議会で『体育協会以外に補助金を出す根拠がどこにあるのか』と質問があり、その結果補助金が打ち切られます。行政は『なぜ体育協会に入らないんですか』の一点張り。行政には区民スポーツ発展のビジョンがないし、体育協会の言いなりでした。
 実際、今現在でもスポーツの器械の公平性はあまり変わっていないと感じます。一般の人たちが日常的にスポーツをする機会の増加をスポーツ基本法に期待します。
一番能力が伸びる12歳までに身体リテラシーを徹底したい
伊藤静夫氏(日本体育協会スポーツ科学研究室・室長)
 運動する子どもがいる一方で、週に1時間以上運動しない子(中学2年生女子の場合、31・6%)が増加しています。いわゆる二極化です。現在、スポーツ基本法を考える上で、まずはわが国のこの現状を認識し、解消して正規分布に戻すことが最大の課題です。
 700万年と言われる人類の歴史。人体の基本設計は人類独特の狩猟採集生活に適合するよう作られてきました。長時間歩き、優れた狩猟技術を駆使し、高い知識と経験を生かし、集団で協力して狩りをする能力。これは遺伝子に組み込まれた形質だけでなく、生後の長い学習期間を必要とした。人類は高い身体能力と、多世代の拡大家族や社会集団による子どもの育成システムを一生かけて学習するプロセスを同時に進化させてきた。しかし21世紀になり、そのシステムの根幹、すなわち子どもが自由闊達に遊びながら、身体能力を育むプロセスが突然危機的状況に陥っています(二極化現象)。
 イギリスやカナダでは、競技力向上と生涯スポーツとの融合モデルを導入し、身体能力育成プロセスの再興を図っています。誕生から小学校段階まで、身体の基礎的な運動能力やスキル、あるいは心理的社会的能力(これらを総称して身体リテラシーと定義)の習得が将来のチャンピオンスポーツにも生涯スポーツ実現にもつながるという発想からです。わが国も家庭、学校、地域が一体となり、子どもの身体能力を育成する環境を取り戻す努力をすべきでしょう。
競技スポーツ中心に進んできた日本  しかし人と人が楽しむスポーツを私たちは忘れていないだろうか
宮嶋泰子氏(テレビ朝日アナウンサー)
 すべての価値観が変わった3月11日以降、日本のスポーツも見直す必要があるかもしれない。そしてスポーツ基本法によって、すべての人にスポーツをする権利が認められた今だからこそ、考えていきたいのです。
フィンランドから学ぶこと
 ところで、フィンランドは週1回のスポーツ実施率が91%というもっとも国民がスポーツをする国です。しかしそれだけスポーツをするにも関わらず、近年は五輪でメダルを獲得する選手がいない。それはなぜでしょうか。
 ストックホルム五輪(12年)で金メダル12個を獲得したフィンランド。ヘルシンキ五輪(52年)までトップスポーツ強化を推進してきました。しかし自殺者が一向に減らない状況を危惧したフィンランド政府は国民1人1人の健康づくりを目指したスポーツを重視。そのため、フィンランドでは五輪種目ではなく、国民同士が楽しめるスポーツがさかんです。夫が奥さんを背負って走るワイフキャリー選手権大会、雪合戦、携帯電話投げ世界選手権大会、サウナ世界選手権大会、泥サッカー世界選手権大会、我慢選手権大会など。
日本スポーツの現状
 しかし日本の現状は全く異なります。スポーツする人としない人の二極化が進み、メダルを獲らせるために、才能ある子どもを早期発掘し、英才教育を施す。私はこれまでずっとトップスポーツ選手を取材してきましたが、トップを目指していて、ポキッと挫折した人は二度とスポーツをしなくなってしまうのです。これは非常に怖いことだと思います。
メダリストは幸せ者か
 私はメダリストと一緒にNPO法人モン・スポ(※)を立ち上げ、日本のスポーツ文化を良くしようと活動しています。発足して間もない頃、ネパールの難民キャンプへ行きました。そのとき、キャンプの所長に1人のメダリストが言いました。 「私は金メダルを獲ったけれど、今までこれが役に立ったと思ったことは一度もない」。私はこの告白を聞き、背筋が凍る思いをしました。今、生活にぎりぎりの元メダリストが何人かいます。彼女たちは本当に世界一と言われた選手でした。現役時代に負傷した膝がいうことをきかなくなり、足を引きずりながらなんとか働いている現実があります。
 スポーツは人を育てるとよく言いますが、私はそうとは限らないと思っています。身体と心を壊すことが多いのが競技スポーツ選手です。まして国を代表するようなスポーツ選手は人格が破壊されていくことが多々ある。五輪選手は特別に作られた選手なのです。 
 モン・スポで難民キャンプの子どもたちと一緒にバレーボールをしたとき、メダリストたちが「こんなにスポーツが楽しいのを初めて知った」と言ってくれました。
変わり始めた日本スポーツ
 さて現在日本では、これまでスポーツと認識されていなかったものが、子どもたちの間で人気となっています。例えばダンス。チアからよさこいまで、みんなで曲に合わせて踊る。五輪種目でなく、スポーツを楽しむ。
 新しい発想を取り入れて、日本は変わりつつあります。人と人がコミュニケーションを取り合いながら、既存競技のルールを変えて楽しむことも重要でしょう。
※モン・スポ…モントリオール五輪・女子バレーボール金メダリストたちの能力と経験を地域スポーツに役立て、日本のスポーツ文化を変えようと活動するNPO団体。宮嶋泰子氏は理事。http://montreal.sports.coocan.jp/